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雲母坂
叡山電車の修学院駅から雲母坂(きららざか)に向かいます。
雲母を「きらら」と読むのですが、何となく現代風な感じがします。
鉱物の一種である雲母のことですが、一説には、この道から雲がわくように見えるのでそう呼ばれているとも言われています。この写真のような感じです。四明岳に雲がかかっています。
親鸞聖人ご聖蹟です。親鸞聖人は、雲母坂を通って叡山と洛中(京都市内)の六角堂の間を往復したといいます。
雲母橋です。
登山口です。
登山道はこのように深く落ち込んだ形になっています。
雲母坂は、京都側の比叡山への登山道なのですが、このように深くえぐられた格好になっています。雨が降れば、川になりそうです。自然にこうなったのか、人為的なものなのかわかりません。
その他、道元禅師、法然上人、日蓮聖人もこの道を通って比叡山に登っています。
このような登山道は、広島県北広島町の中野冠山の隣にある、小カブリ山の登山道にも見られました。
ところどころ、このように展望の開けた場所もあります。
鎌倉時代から室町時代に移るときに、南北朝の動乱がありました。
簡単に言えば、天皇家が南朝と北朝に分かれて対立したのでした。
北朝には、足利尊氏がついており、後醍醐天皇の南朝には、楠木正成、北畠親房、名和長年などがついていました。さらに南朝方に千種忠顕がいました。
後醍醐天皇が隠岐に流されると、千種忠顕も隠岐に随行しました。
伯耆の国の名和長年が隠岐から後醍醐天皇をお連れすると、千種忠顕は、雲母坂で、足利直義(尊氏の弟)の軍勢と戦いました。
ここは水飲対陣之跡(みずのみたいじんのあと)です。ここで、千種忠顕(南朝)と足利直義(北朝)が戦いました。
水飲対陣之跡
延元元年乱 中将忠顕卿 官軍将
四明嶽防給 賊西坂 三方攻寄
官軍水飲地 攻下対陣 翌賊大軍後方襲
衆寡敵 卿水飲地ニ戦死
給太平記見
大正十年夏日 掃雲千種顕男誌
(私の下手くそな訳です)延元元年の乱では、中将であった千種忠顕卿は、官軍(明治から昭和戦前にかけては、南朝が正統であることを強調していました。)の総大将として四明岳を守っておられた。賊(足利軍)は西の坂の三方から攻めてきた。官軍(千種軍)は水飲の地に攻め下して対陣したが、
翌日には、足利軍が背後から攻めてきた。千種軍は少なく、歯が立たなかった。忠顕卿は水飲みで戦死されたことが、太平記に書いてある。
そして、こちらは、千種忠顕が戦死した場所を示す碑です。水飲対陣之跡から15分くらい歩いたところにあります。
ケーブル比叡駅が見えてきました。
雲母坂
坂山
広島市安芸区
瀬野の坂山に登ってきました。安芸の谷の雄である鉾取山の北北東にひっそりとそびえる山です。
JR中野東駅から出発です。
坂山はまさにひっそりとそびえていると言った感じです。
東広島バイパスの工事現場を横切って行きます。
登山口から少し登ると、椿のトンネルがあります。11月を過ぎると椿の花でいっぱいになるのでしょう。
植林帯にあうと、稜線は間近です。
稜線出合いです。右に行くと鉾取山、左に行くと坂山です。
514mピークです。平坦な山頂です。
坂山に着きました。
なかなかの絶景です。
下りは、瀬野駅の方に向かって降りていきます。
神原滝です。いたって地味な滝です。
天然の庭園のような風景です。
坂山
梅林小学校から阿武山に登る道を、前回は装備不足で断念しましたが、
今回は登頂成功しました。
ここが登山口です。
所々に展望のよい場所があります。
しかし、やはり険しい道です。
このあたりは三葉の松が生えていました。
これが、阿武山で見つけた、三葉の松の葉です。
東区の二葉山とは松の山という意味ですが、松は、普通は二葉なのです。
しかし、時々三葉や五葉の松もあるのです。
空海が持っている三鈷に似ているので、三鈷松とも呼ばれています。
漢字が刻まれています。「一」「五」「午(うま)」が見えます。
もしこれが、年号を表しているとすれば面白いです。
戦国時代以降で、15年が、午(うま)年になるのは、
天文(ひのえうま)元禄(みずのえうま)明治(みずのえうま)の3回です。
もしこれが天文なら・・・・・・。
何が書いてあるかわかりませんが、ロマンをかきたてられます。
どちらも空の祠でした。
「八木」の文字が見えますが、コンクリート製です。
超急登を駆け上がって行きます。
貴船神社です。京都の貴船神社と同様、水神様が祀られています。
水神様と言えば龍です。天正年間に、八木城主の香川勝雄が、大蛇を退治したという伝説があります。大蛇や龍は水の神様でもあります。
先ほどの、謎の文字は、後世の人が、香川勝雄の伝説を書き記したものだったのかもしれません。
八木の人は、水に悩まされたのでしょう。川の水が氾濫すれば、洪水になり、水がなければ農作物ができません。
当時、治水ということは重要な事業だったのです。
香川勝雄は太田川の治水を行った人で、このような伝説ができのでしょう。
山は水を生み出す場所です。人々は阿武山自体を神としてあがめ、貴船神社を建てました。
時には荒れ狂ったり、時には恵みを与えたりするのが日本の神様です。
香川勝雄は水の神である大蛇を頭、胴体、シッポに切り、三カ所に埋めました。
頭を埋めたのが、山頂の貴船神社で、胴体とシッポは、途中にあった空の祠なのです。
梅林駅から70分で、山頂に着きました。
太田川を挟んで、松笠山の龍と、阿武山の龍が対峙しています。
そして太田川も龍。
梅林からの阿武山登山道は、かつての正式登山道であった可能性があります。
緑井権現山から阿武山への登山道は、安佐南区と安佐北区(旧佐東町と安佐町)の境界をなしていますが、阿武山山頂付近は、すべてが安佐南区八木に属しています。つまり、阿武山は八木の村の山だったのです。
だから、梅林からのルートが正式なのです。
そして、ここには三葉の松や、祠、謎の文字がありました。
昔の人は、この道を参道として、神そのものである阿武山に登ったのでしょう。
アストラムラインの毘沙門台駅から出発です。
毘沙門台の住宅地を通り、緑井毘沙門天へ向かいました。
緑井名物の「びしゃもん子ねこ」です。正直で、優しい性格の男が連れて帰った子ねこが小判に変わっていたというお話しです。
仁王門です。この上に鐘楼があります。
金剛力士(仁王様)です。
朱い灯籠の参道を登っていきます。
いつ見てもユニークな布袋尊です。
狛犬ならぬ狛虎がお出迎えです。
ご多分に漏れず阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の狛虎がいました。
虎は毘沙門天のお使いなのです。
上杉謙信は、元の名を長尾景虎と言いましたが、自らを毘沙門天の生まれ変わりと考えていました。
ここにも虎の絵が・・・・・。
毘沙門天のとなりにある東明寺です。
ここから緑井権現山に登って行きます。
里見の岩です。武田山、火山が見えます。
多宝塔です。原爆犠牲者の慰霊のために建てられました。入り口は爆心地の方を向いています。
坂村真民の「念ずれば 花開く」です。
緑井権現山に向かってさらに登っていきます。
途中の展望は良好です。
毘沙門天から、阿武山まで歩きやすいように人工のマットが敷いてあり、いたれり尽くせりの山です。
緑井権現山に着きました。山頂にはマイクロウエーブの電波施設が林立しています。
緑井権現山の三角点です。
次に目指す阿武山が見えてきました。
案内板です。
太田川まで5km。長い道のりです。
鳥越峠まで下って行きます。
ここが鳥越峠です。折れれば七軒茶屋に降ります。
高度を増すにつれ、遠くまでよく見えるようになります。
阿武山の三角点を踏みます。
ここから、アップダウンの多い標高500m以上の道を歩いていきます。
阿武山から534m峰まで4つのピークがありました。
こちらの道は、阿武山までの明るい道とは反対に暗い森林地帯を行きました。
太田川登山口に出ました。
ここに福音荘がありました。
アストラムライン毘沙門台駅から、JR八木駅まで、12kmの道を歩きました。
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